NHKのアナウンサーから「伝統工芸」の道へ彼女のただならぬ決意~「年齢を重ねることを喜べる生き方がしたい」
NHKアナウンサーの職を手放して職人の道へ進んだ女性に話を聞きました(写真:梶浦明日香さん提供)
傷さえも魅力になり、年月を経るほどに美しさや価値が増す――。そんな伝統工芸の考え方に魅せられ、NHKアナウンサーの職を手放して職人の道へ進んだ梶浦明日香さん(40)。伝統工芸の灯りを絶やさず、守り続けたいと願う梶浦さんは、なぜ自ら職人になる道を選んだのか。一度きりの人生。会社員を辞めて夢や目標に挑戦した人々のストーリーを紹介する連載の第5回。■夢と現実の間でテレビ局のアナウンサーは子どもの頃からの夢だった。狭き門ゆえ周囲から反対されたものの、どうしても夢をかなえたくて、卒業生にアナウンサーが多い立教大学を選んで進学した。大学では専門学校3校を掛け持ち。学業との両立で多忙を極め、とうとう過労で倒れて救急車で搬送されたこともある。それほどストイックに追い求めた夢だった。
間もなくアナウンサーらの所属事務所から声がかかる。大学3年生からは学生キャスターとして首都圏のテレビ局でお昼と夕方の情報番組に出演するようにもなった。努力が実を結び、新卒で憧れだったNHKに入局。三重県・津放送局の配属となり、ニュースを読んだり、現場からの中継やリポートをしたり。「夢のように楽しくて、天職だと思うぐらい」、刺激的な毎日だった。一方で、アナウンサーという仕事を続ければ続けるほど、自分に求められる価値の一つが「若さ」であることに気づいた。「人は必ず年を取り、若さが失われていくことには誰もがあらがえない。それなのに若さに価値が見出され、年を取ることを喜べない生き方ってどうなのだろう」。
心の中に疑問を持ちながら仕事を続けていた時のこと。夕方の情報番組で、伝統工芸の職人を紹介する「東海の技」というコーナーを担当するようになった。この仕事がきっかけで、伝統工芸の世界に魅せられていく。取材を通じて心に響いたのは、伝統工芸の職人たちが大切にする「一生現役・一生成長」という考え方。職人自身の生きざまが作品に現れるから、年を重ね、経験を積むことに価値が見出される。そして伝統工芸品そのものも使い込まれたほうが味わい深く、傷さえも美しいと評価される。そのような伝統工芸の世界が、「若さ」に価値が見出されるアナウンサーの仕事とは対極的で、光を見出した気がした。
アナウンサーの仕事は充実していたが、「私の代わりはほかにいくらでもいる」。そう思う現実もあった。一方で、伝統工芸の多くは後継者不足で、唯一無二の技術や文化が存続の危機に直面している。取材を進めるにつれ、途絶えてしまっては代わりがない伝統工芸を「守りたい。守らなければ」という強い思いが芽生えるようになった。■ある職人の涙忘れられない出来事がある。放送後、取材のお礼であいさつに行くと、その職人は梶浦さんの手を握り、「ありがとう、初めて自分の仕事が日の目を見た」と涙した。
取材を通じて、たくさんの職人が苦しさを抱えながら、必死に伝統工芸を守り続けていると知った。経済の発展重視、大量生産・大量消費の時代の波にもまれ、伝統工芸の価値は蔑ろにされやすかった。そればかりか「ちゃんと勉強しないと、あの人みたいになってしまうよ」と指を指された職人、華やかな暮らしをする同級生を横目に家業を継いだばかりに苦しい生活をしてきたと嘆く職人もいた。「その道50年にもなろうという職人が、わずか25歳で、数回しか会っていない私に泣いてお礼を言う。そんなことをさせてしまった今の世の中が悔しくて」、一緒に泣いた。
職人たちが日本の文化の守り手として誇らしく思える社会、もっと職人たちが報われる社会であってほしい。そのためには、もっと伝統工芸を多くの人に知ってもらうことが必要ではないか――。仕事柄、使命感が芽生えたのは自然な流れだった。しかし梶浦さんは「伝える人」ではなく、「作り手」として伝統工芸の世界に飛び込む決意をする。自身は専門的に美術や工芸を学んだ経験はない。特段、手先が器用とか、物作りが好き、ということでもない。それなのに職人になる覚悟を決めたのは、「自らが後継者にならなければ伝えられないものがある」と実感していたから。
「番組のコーナーは視聴率が良くて、たくさんの方が見てくれました。でも、いくら第三者の私がリポートしても、ほとんどは“わあ、素晴らしいね”で終わってしまう。もし私が職人になり、仕事のこと、作品にまつわる文化や歴史、込めた思いを当事者として伝えられたら説得力が増すと思いました」まずは仕事を続けながら、取材で知り合った伊勢根付(ねつけ)の職人・中川忠峰さんのもとへ休日に通い、根付づくりを習い始めた。根付は着物の帯に印籠や巾着袋をつり下げる留め具として愛用された小さな彫刻で、梶浦さんは「元祖・携帯ストラップ」と称している。
その中でも「伊勢根付」は、伊勢神宮近くの朝熊(あさま)山でしか採れない黄楊(つげ)の木を掘り出したもの。江戸時代からお伊勢参りのお土産として人気を博した伝統工芸品だ。■「伊勢根付」を選んだ理由数ある伝統工芸の中で「伊勢根付」を選んだのは、中川さんの人柄にほれ込んだこと、そして、細かい彫刻の美しさはもちろん、小さな根付に込められたストーリーや、粋な遊び心にひかれたことが大きい。「例えば“リス”という作品名なのに、栗の中にいるネズミを掘った根付は“栗鼠(りす)”という漢字にヒントがあります。そんな作る人と使う人の知恵くらべ、みたいな楽しさが面白くて」。落語や昔話を題材にした作品も多く、込められた意味や想いを知れば、より一層、味わい深くなるのが根付の「粋」な楽しみだ。
また長期にわたって使い込んで色合いが変わったり、傷がついたりすることを「なれ」と呼び、そこに価値を見出す文化にも共感した。「今の世の中って、一回でも傷がついたらダメ、みたいな風潮があるじゃないですか。そうではなくて、たくさんついた傷さえも美しくて、作品の価値を増すという考え方がすごくいいなと思いました」。その後、名古屋放送局へ異動となり、仕事の忙しさもあって根付づくりの修行はいったん中断せざるを得なかった。しかし、2009年に結婚したことで、家族と一緒に同じ場所で暮らしたいとの思いが強まり、3年ごとの転勤を免れられないNHKを退社。仕事を辞めてからはフリーでイベントや結婚式の司会を請け負いながら、根付職人の修行にも打ち込んだ。
修行では1つの課題で10個、中川さんから合格をもらえたら、次の課題を掘っていい、となり、順々に難易度の高い作品に挑んでいった。平べったい根付、丸い根付に続いて製作を許されたクリの根付は、10個合格したら初めて販売も許可された。梶浦さんの場合、ここまで1年半かかった。販売に関しては中川さんに甘えず、自分でどうにかしようと行動。SNSでの情報発信から顧客を開拓し、少しずつ売れるようになった。しかし販売できる作品は数点しかない。
「本気で頑張っているのに、司会業をしている限り、根付は趣味の延長としか思われない。職人として生きる運命をちゃんと背負い、逃げず自分の足で生きていく背中を見せられなければ、伝統工芸に挑戦しようという新しい人たちが出てこないのでは」そう考え、2012年からは司会の仕事を一切断り、根付職人一本で生きていく覚悟を決めた。伝統工芸は「一生成長」、「死ぬまで未熟者」などと言われる世界。特に経験が浅い頃は、成果や評価を実感として得にくい。梶浦さんも自分ではある程度、上手になったつもりでも全く商品として売れない時期があった。「それが途方もなく苦しくて。このまま続けていけるのか、不安で押しつぶされそうになりました」。
だが「このままではいけない」。そう思い立ち、梶浦さんは行動する。まず、作品だけで注目してもらえるほど世間は甘くないのだから、もっと自分を前に出していこうと決心。働く女性を応援するコンテストで1位を取るなどして注目を集め、「根付職人・梶浦明日香」として知名度を上げていった。■伝統工芸の異業種グループを立ち上げたまた、伊勢を中心に活動している若い伝統工芸の職人6人で「常若(とこわか)」と名付けたグループを結成。それぞれ数点ずつなら販売できる作品があり、「一人では無理でもグループならできる」と販売会を開いた。
すると、伝統工芸の異業種がグループを組むのは「前例がない」、「面白い」となっていろいろな企画で声をかけてもらえるようになった。特に2016年の伊勢志摩サミット開催は追い風となり、作品を紹介する機会に恵まれた。2017年にはマレーシア、香港、ベトナムでワークショップを開催。結成時に「いつか海外へ」と掲げた夢までも現実になった。「一人ではできないことも、グループならできる」。そう確信した梶浦さんは、東海地方の若手女性職人9人で「凛九(りんく)」も結成。女性特有の悩みや不安を分かち合いながら結束力を高め、情報発信に力を入れた結果、2018年には日本橋三越本店(東京都)の催事に出展しないかと声がかかるまでになった。
挑戦はさらに続き、2019年には尾張徳川家の宝物を伝える徳川美術館(名古屋市)でも企画展示することがかなった。国宝や重要文化財も所蔵する由緒正しき美術館で、「凛九」のような若手グループが作品を展示することは前代未聞。だが「博物館としても若い職人を守り、応援しなければ未来につながらない」と一人の学芸員が周囲を説得してくれた。「ご縁に恵まれて、一つひとつ、前へ進んでいった」。仲間や応援してくれる人たちとの出会いがあって、気づけばすっかり、職人としての毎日が当たり前のものになっていた。
SNSでの情報発信で受注制作が増えるとともに、「常若」や「凛九」として百貨店などで展示販売する機会もたびたびあり、ちゃんと自分の足で生きていけるだけの稼ぎは得られている。またロンドンのアート展で大賞を受賞するなど、海外での評価が励みになり、ますます作品づくりに没頭するようになった。「私が職人は魅力的な仕事だと紹介すると、無責任なことを言うなと批判されることもあります。確かに修行の大変さはあるし、そんなに稼げるわけではありません。でもぜいたくをしなければそれなりに生きていけるし、特に地方なら生活費があまりかかりません」
地方の職人として生きるうえで、プラスに働いているのはインターネットの普及だという。「SNSでネットワークを広げれば、経験の浅い職人でも作品を販売できます。どこで活動していてもお客さんとつながることができるので、チャンスにあふれた時代だと思います」。とはいえ、安定した収入が保証されているわけではないので、まずはほかの仕事をしながら、職人の仕事を軌道に乗せていくのでもいいと考えている。■「一生成長、一生修行」の言葉に救われた
大学で観光学を学んだ経験から「観光に必要なのはその地域の個性。そして個性を作り出すものの一つとして、伝統工芸は地域の宝、未来へ残すべき資源」だという信念がある。国指定の伝統工芸はある程度、守られているが、都道府県指定の伝統工芸品が厳しい状況にあることに危機感を持っている。「高齢の職人1人しか残っていない、という知られざる伝統工芸は全国各地にあります。ぜひ身近にある伝統工芸に関心を持ち、跡を継ぐ人が一人でも増えてほしい」
職人として背負う「一生成長、一生修行」の宿命を苦しく感じたこともあった。しかし40代になった今は、その言葉に救われている。「作品を作り続けるプレッシャーもあります。でも、一生成長できる、って考えれば気持ちが楽になる。年齢に関係なく自分のペースで挑戦を続けていけますから」。年を取っても、傷ついても、ありのままに、大切に。梶浦さんの伝える伝統工芸の価値観は、多くの人が苦しい思いをしている現代社会で、より一層の輝きを放つ。