人工培養された人肉を食べることはカニバリズム? 専門家に聞いてみた
専門家に気になる疑問への見解を聞く「GIZ asks」。今回のテーマは培養肉、しかも人肉です。現状では培養肉ですらまだ普及に遠い状況ですが、もし人肉が培養されるようになったら研究室育ちの肉とはいえ、それは人間が人間の肉を食べる行為、つまりカニバリズムにあたるのでしょうか? 作家や研究者、あるいは人肉を食べざるを得なかった経験者などの7人に質問してみました。
死んだ人間を食べることと、生きた人間を食べることを切り離せないという点こそが、人肉食とそのほかの動物の筋肉組織を食べることとを隔てる不快な境目です。牛の赤ちゃんは子牛肉、豚はポークなのと同じように、人肉はただの人肉であるはずなのに、もも肉を食べているとは考えず、その人の太ももを食べていると考えてしまうのです。
では、クローン化された研究室育ちの人肉を消費することはどうなのか? このアイデア自体はフィクション(具体的に挙げるなら、ブランドン・クローネンバーグの2013年のSFホラー『アンチヴァイラル』)であって、これが実現可能な未来はまだ先のことです。しかし、クローン化されたヒト組織を食べることは厳密に解釈してカニバリズムにあたるのでしょうか?
仮定の話ですが、遺伝子上の人間のドナーなしで培養された人肉の場合はどうでしょう? 研究室育ちの動物の肉でさえ、いまだそのゴールには届いていません。今夏の時点では、研究室育ちの肉は本物のウシの胎児血清から作られています。
植物タンパクの食品ベンチャー企業Hampton Creekは、植物データベースから肉の細胞に近づけようとしていると主張しています。そしてはじめて人工肉バーガーを生産したMosa Meat(モサ・ミート)の共同創立者であるマーク・ポスト氏は米Gizmodoに対し、研究者たちは各種類からサンプルとなる細胞用に「害のない細胞」を試していると謎めかしつつ教えてくれました。「私の予測ではアニマルフリーな肉の生産方法へと徐々に動いていくが、これまでのところ現段階のテクノロジーでは遺伝子技術なしには実現できない」とのこと。
何はともあれ、ヒトの胎児を巻き添えにせずともペトリ皿に研究室育ちの人間のふくらはぎの筋肉が現れるのを想像してみてください。培養された人肉のハンバーガーを食べるのはカニバリズムになるのか? それともただのハンバーガーという扱いになるのでしょうか?
取るに足りない倫理観の問題だ
ウィリアム・ミラー:『The anatomy of disgust』の著者、法学者、アイスランド研究の専門家。
私が思うに、本物のカニバルはそんなくだらないものを食べることにショックを受けるでしょう。カニバルは本物の人間からの肉を食べなくてはならない、食べたい、あるいは食べざるを得ないもの。それを私たちはカニバルと呼ぶのです。人類学的な文学に記録されているカニバリズムには、少なくとも2つの種類があると私は考えています。1つ目は敵の魂を取り込む目的で、さまざまな人が実践した戦時中の習わしとなっています。もう1つは宗教的な恩義として自分の親類を食べるもので、それはどちらかというと(ブラジルのワリ族のように)儀式化されています。どちらの場合にしても、人肉を食べるのは安っぽいスリルの一種からではなく、理由があるものだという感覚を抱きますよね? 食卓に出そうと企てているこの試験管の人肉は、モラルをごまかすようなもの、食べてはいけないはずの食物をまねるために、過越祭(パスオーバー)でのパン作りにジャガイモ粉を使うようなごまかしです。その質問を気味が悪いと思った理由の1つは、それを食べることでどうやら君は我が身を自然界から除外するという事実に直面しただけということ。医学的と生物学的な科学があまりに洗練されてしまい、可能ではなかったことや我々がすべきではなかったことができるようになったが為に人類における普通を再構築しているようなSF的な未来の多くのことに、私は胸が抉られるような不快感を覚えました。この質問はぜいたくな悩みとして、人々が冷笑するようなものだと思います。すでに腐っている我々の倫理的な感受性を技術的なノウハウが陵駕してしまった、あるいは傷つけているのかもしれないから、これらはあまりに退屈で生み出されすぎた、取るに足らないモラルの問題のようなものです。とはいうものの、答えが明白だからといって、かつて食べたものについて人々は心配しなかったわけではありません。
文化そのもの、私たちのもっとも大事な文化的なルールは基本的に、寝る相手と食べれられるものを律するためにありますからね
社会的な倫理観が普及を妨げるだろう
ジェイコブ・M・アッペル:生命倫理学者で『The Man Who Wouldn’t Stand Up』の著者。
その行為がカニバリズムに当たるかどうかという質問は、おそらく言語学者か料理の権威に委ねるのが一番良いかもしれません。道徳上の唯一の懸念は、このまがい物の人肉の魅力によって危険な嗜好を持つサイコパスたちが骨付き人肉を得ようとしてしまうのではないかということ。もっと実用的なレベルでいえば、たとえ倫理的な反論がなかったとしても消費者たちが研究室育ちの人肉のために行列を作るとは想像しがたいです。文化的な基準はときどき、私たちが合理的あるいは倫理的な行動の指針となります。たとえば、路上でひき殺された動物は狩られた食肉と同じくらいおいしいかもしれませんが、ひき殺されて間もない鹿とオポッサムを漁るために道路をくまなく探す人はほとんどいない。だから、まがい物の肉の生産者たちによってフランク・パーデュー(の鶏肉処理会社)が近いうちに倒産することには、それほど心配していません
感覚をもつ動物の肉と感覚を持たない人工人肉
オロン・キャッツ:SymbioticAの創立者であり、半生体組織を素材とした「皮革」ジャケットなどに取り組む研究者兼アーティスト。
その質問は20年以上も私を悩ませてきた問題の1つに関係しています。特にこの(場合)イオナット・ズールと私自身が半生体組織と呼ぶものを立証します。半生体組織とは、技術的な背景において生かされ成長している複雑な組織体の一片(組織や細胞のこと)です。こういった技術的な生命の形態がどこに適合するかについてはまだ意見が合致していません。研究室育ちの肉はそれの好例で、体外で成長させた人間の細胞となれば、我々はこれらの細胞がそれでもそもそも人間としてみなされるかどうかを問う必要があります。1991年にVan ValenとMaioranaは初のヒト由来の細胞株で今や有名なHeLa細胞について「新たな微生物の一種」としてみなすべきだと提案しました。『Journal of Evolutionary Theory』に掲載された記事で、彼らは「種は多様な方法で生じる。HeLa細胞はもっとも有名なヒト由来の培養された細胞だ。我々はここで、それらは特定の環境下に限られる別の種になったと真面目に提案する」(ヴァン・ヴェーレンとMaiorana、1991)と述べています。彼らの理論を受け入れるなら、ヒトに由来する試験管内の肉を食すことはカニバリズムとはみなされないと結論づけることができます。その育った細胞がどうにかして「新たな微生物の一種」へと変えられさえすれば。つまり、その細胞は肉へと仕立てられる前に細胞周期をX回と経なくてはならないのです
米Gizmodo:それでは、約190℃の研究室環境に閉じ込められた、研究室育ちで思考力のある(半生体組織である)ヒト由来の脳は何であると考えますか? 異なる種になりますが、でもそれを消費することはカニバリズムに隣り合う行動だと考えられませんか?
我々は皿の中で精神を作ることができるでしょうか? 近いうちには無理ですよね。誰もまだ厚みのある組織の奥深くへと栄養を送る方法を解決していないので、多くの組織型や臓器のように3Dプリンタで育てられるようになるには未だ長い道のりがあります。この点こそ3Dプリントされた臓器や組織が人間そのものであるかという点について懐疑的にならなくてはいけない理由の1つです。試験管から脳がすぐにできるわけではありません。しかし、それが現実になるとしても個人的には具現的な認知に傾いていますね。身体がないまま人間の神経細胞を育てても、人間としての自覚は得られないでしょう。ある種の意識や感覚は持つかもしれませんが、それが人間だと思いません。クローンには身体がありますが、それはクローンでもないのです。一卵性双生児が人間であるのと同じようにクローンも人間ですからね。また、研究室あるいはコンピューター(すなわち人工知能/人工生命)などで育てられた、精神を持つ存在の将来と、それらに適用するべき倫理上の懸念点を推測してみましょう。高まりつつある生物形態の分野での取り組みの多くは、商業的な関心や実用性と人間の欲への工学的な考え方によって動かされています。ですからこういった生物形態と我々の関係が搾取的にならないというのは難しいかもしれません。つまり生物学がテクノロジーとなり、命が操作される原材料となるにつれて、倫理的な懸念点は障害物としてみられていくのです。興味深いのは、研究室育ちの肉の支持者による議論の1つには「感覚を持つものを殺すよりも感覚を持たない厚切りの肉を育てよう」という倫理に基づいているんですよ
精神の有無によって左右される
Abdulaziz Sachedina:教授であり、ジョージ・メイソン大学にあるイスラム研究のIIIT(International Institute of Islamic Thought)の議長
人間に類似した研究室育ちの肉は実際の人間に由来するわけではなく、「ヒト」から生まれたと考える基準を満たしません。それゆえ、この質問はクローン技術と近いでしょう。たとえば心臓弁は、強度と耐久性においてブタの心臓弁(それをもとにした人工心臓弁は人工弁置換術に使われる)と似ていますよね。科学的な方法で生産された「人間の肉」は、物理的な意味においては非人間です。「人間の肉」は生化学的組成においてのみ人間なのです。人間は自然に作られたものであるから魂の質問が生じますが、それは人間科学ではなく神の力によるもの。クローン技術のような状況は科学で創出できますが、 魂を吹き込むことはまだイスラムの神の御力によるのです
米Gizmodo:ではあなたの意見からすれば、単なる研究室育ちの人肉ではなく、完全に形成されたクローンの人間を食べることはカニバリズムに当たりますか?
精神が発育した人間であるかぎり、彼もしくは彼女の肉を食べることはカニバリズムになるでしょう。いやむしろ、クローン化した人間がほかの人間たちのように振る舞う(論理的に考え、感情を出し、愛し、憎しむ)なら、彼もしくは彼女はクローンであっても、1人の人間としてみなされるのです
培養された細胞の由来が「ヒト」ならグレーゾーン
ビル・シャット:生物学の教授で『Cannibalism: A Perfectly Natural History』の著者
面白いことに、この3日間でそれを聞かれたのは2回目(そしてこれまでなかったこと)なんです。私はカニバリズムを、同じ種の身体の一部あるいは全身を食べてしまう個人だと定義しています。この質問は自身の指の爪を食べることのようにグレーゾーンに該当しているようですね。私たちが話題にしているのが培養された人間の細胞ということであれば、私はこれをカニバリズムだと考えざるを得ません
米Gizmodo:研究室で育てられた試験管に入った人肉は人間が管理する環境下に限られているため、全く異なる微生物の一種だと主張するアーティストと話しました。ある神学者は研究室育ちの組織には魂がないとみなし、そうであるがゆえに非人間だと語っていました。その違いはほとんど意味論的だと思いますか? それはつまり、もし人間の指の爪のような匂いと味がするなら、その物体は人間の指の爪になるのでしょうか? それは程度の差が異なるだけで、厳密にはカニバリズムなのでしょうか?
もしあなたが言及した培養物がヒトの細胞に由来あるいは育ったなら、(可能性はきっと低いが)それらを食べることはカニバリズムの亜種(グレーゾーン)としてみなされるでしょう。人間組織の培養であるなら、それは「完全に異なる微生物の一種」ではありません。微生物は単細胞生物です。これは細胞培養、あるいは組織培養ですから、単離ニューロンあるいは繊維組織と同様の個体ではないのです
生存本能と種の保存闘争によってわかれていく
マーク・ポスト:マーストリヒト大学の教授、初の人工肉バーガーを出したことで有名なMosa Meatsの共同創立者
大人の聴衆だとその質問があがることはほとんどありませんが、子ども相手に培養肉について話すと頻繁に持ちあがってくる質問ですね。人々にはカニバリズムがタブーであるという前提があり、消費者がヒト由来以外の培養肉でも概念を理解する必要がある現状、この議論を始めるのは無益だと思います。もっとも頻繁に聞かれる「道徳上の」質問は、培養肉によって世界がどのように変えられるのか、つまり酪農家や土地、動物に何が起きるかということです
米Gizmodo:なぜ子どもたちの意識はそこに行くと思いますか? そして彼らがよく聞くほかの質問は? それらにどのように答えますか?
子どもたちにとってカニバリズムにまつわることは、我々思春期を過ぎたものほどタブーでありません。フロイトはカニバリズムのタブーについて、我々自身を食べるという(究極の性体験としての)内なる欲求を抑えるために機能していると語っていたと、かつてドイツのデザイン学の教授に指摘されたことがあります。正直いうと、私はそれを確認したことはありません。子どもたちはクローン技術、具体的にいうと彼らの亡くなったペットについても質問しますよ。生きている動物に対しての感情と喪失の苦しみ(あるいは人間が苦しむ極端な状況)、それに対して人間が得る恩恵との不協和を、心理学者たちは認知的不協和と呼んでいます。名称があるからといってその仕組みを説明できるわけではありませんが、一般的な人間(そしておそらくほかの動物たち)の特性で、どうやらヒエラルキーを含んだ根本的な生存本能のようなものです。つまり、食物のために動物を殺したり、危機に迫った場合には人間を殺す(合法的な言い訳として、自己防衛という言葉さえある)ということです。ヒエラルキー自体が生存本能のかたちとよく合致しています。いいかえれば、報復の可能性が少ないために人間はウシやブタ、あるいはトリを食べているということなのです
過酷な飢えと直面したとき、なにを思うのか
ナンド・パラード:作家、起業家、そして1972年アンデスで起きた空軍機遭難事故の生存者。彼と15人の生存者たちは雪の中で過ごした72日間を生き抜くため、友人を含む犠牲者の人肉を食べざるを得ませんでした。
はじめに「カニバリズム」という言葉はほとんどの場合において誤用されていると知るべきです。私たちが行なったことは「人肉の摂取」です。カニバリズムとは、食べるために誰かを殺す行為のこと。私たちが行なったのは世界で最も美しい行為、つまり、友人たちに私たちの心を捧げたんです。私たちは史上初となる「良心」のドナーとなりました。現在、どれほどの人が臓器を寄付していますか? 実際のところ、私たちの経験があったために、法によってすべてのウルグアイ人は生まれながらにドナーなんです。これによってどれほどの命が救われてきたか想像できますか?飢えは人間の最も原始的な恐怖であり、本当に危機的な状況でないかぎり経験することはできません。ともかく、誰に対しても説明の余地なんてありません。この問題における最も重要なエキスパートとしていえるのは、どんな人でもあってもこの状況になれば、同じことをしただろうと確信しています。君でさえもね。人工の人肉を食べることが人食いとみなされるかどうかはまったくわかりません。こんな私ですが、今も人間性たるものはかつてと変わってはいないと思いますけどね
Image: Angelica Alzona/GizmodoSource: WikipediaWhitney Kimball - Gizmodo US[原文](たもり)