福島民友 【証言あの時】前いわき市長・渡辺敬夫氏 最終手段...船舶総動員
「東京電力福島第1原発から30、40、50、60キロと(10キロ単位で)避難計画をつくった。最終的には(いわき市)小名浜港から船舶を総動員して市民が脱出できるように政府と調整していた」。いわき市長だった渡辺敬夫は、市独自の避難計画の存在を明かした。
いわき市は2011(平成23)年3月11日の東日本大震災に伴う津波で、沿岸部に大きな被害を受けた。地震と津波の危機対応に当たっていた渡辺は、休む間もなく、十分な情報が届かない中で原発事故への決断を迫られていく。
12日午後、第1原発1号機が水素爆発した。政府の避難指示は原発から半径20キロにとどまっていたが、渡辺は独自の判断で12日夜に原発から約30キロ離れた市北部の久之浜・大久地区の住民の避難を決断。13日早朝から実施した。「万が一に備えよう」と、市職員に全市避難を想定した避難計画の作成を命じた。
15日朝には、民間からの情報で放射線量が高いことが分かった市北西部の川前町下桶売の住民らに自主避難を要請した。政府が原発事故の進展を危ぶみ、第1原発から半径20~30キロの地域に屋内退避を指示したのは15日午前11時。いわき市ではすでに、対象となる区域からの避難は完了していた。
原発事故の際、甲状腺への被ばくを防ぐために使う安定ヨウ素剤の配布についても、いわき市は独自の決断を下す。14日、第1原発3号機が水素爆発した。渡辺や市幹部は災害対策本部があった市消防本部の一室で、ヨウ素剤配布に向けた協議をしていた。14日から15日に日付が変わったころ、事態が急変する。
消防本部には1999(平成11)年に起きた茨城県東海村のJCO(核燃料加工会社ジェー・シー・オー)の臨界事故を受け、大気中の放射線量を測定する機器があった。消防職員が駆け込んできて「放射線量が急上昇しました」と伝えた。渡辺は「配るしかない」と決断する。18日には、妊婦と40歳未満を対象に大規模な緊急配布を展開した。
渡辺は「先手先手で動くことができたのは、県議時代に18年間原発問題に向き合ってきた経験と、市職員の努力のおかげだ」と語る。ただ、その渡辺にも、不可解な出来事があった。
政府は4月22日、屋内退避の地域を「緊急時避難準備区域」や「計画的避難区域」に再編したが、いわき市はどちらにも指定されなかった。渡辺には、屋内退避の解除方針のみが伝えられ、区域再編についての話はなかったという。
ところが、政府はいわき市について「市長の要望で(緊急時避難準備区域などにせず)解除した」とする声明を出した。渡辺が抗議すると「市長の意を忖度(そんたく)した」という文章が帰ってきた。渡辺は「忖度という言葉はあの時初めて聞いたな」と振り返った。(敬称略)
【渡辺敬夫前いわき市長インタビュー】
前いわき市長の渡辺敬夫氏(75)に、市が独自で取り組んだ東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の危機対応などについて聞いた。
自衛隊の船でも民間旅客船でも集め33万人避難できるよう要請
―東日本大震災の発生時はどこにいたのか。 「あの日(2011年3月11日)は中学校の卒業式に出ていた。午後4時から別の会合があったので、着替えるために自宅に戻っている時に地震が起きた。大きな揺れで家がつぶれてしまうかと思った」 「副市長から『すぐ迎えに行きます。県の合同庁舎の駐車場にいます』と電話があった。市役所の被害がひどく、とても(中に)入れない状況だった。(副市長と)合流した後、耐震対策が万全だった市消防本部の建物に災害対策本部を設置した」
―市内の被災状況は。 「津波の被害が出ているとの報告を受けた。避難所の開設と同時にJAに連絡してコメの提供を依頼した。農協婦人部や市職員に手分けしてもらい、避難所でおにぎりを提供した」
―原発事故の情報はいつごろ入ってきたのか。 「12日朝に、当時の草野孝楢葉町長から『いわき市で(避難者を)受け入れてくれ』と電話が来た。『とにかく避難させてくれ』と言うので、原発事故が原因だろうと分かった。だが『なぜ住民の避難を町長が判断しているんだ』と疑問に思った」 「後から聞くと、県警の駐在員から『本部から避難指示(命令)を受けた。なぜ楢葉町は避難しないのか』と言われ、避難を決めたそうだ。いわき市には政府からも県からも特に連絡はなかった。テレビの情報が一番早かった」
―13日に市の判断で第1原発から約30キロ離れた市北部の久之浜・大久地区に自主避難を要請しているが。 「原発がどうもおかしいので、市の責任で(住民に)避難してもらうことを決めた。12日に消防団と連携してバスで避難してもらう段取りをし、13日の朝に実施した」 「久之浜の避難を決めた12日ごろだったと思うが、さらなる原発事故の悪化に備え、原発から40、50、60キロ圏内の避難計画を策定するよう職員に指示した。避難区域が広がった場合、小名浜港に自衛隊の船でも民間旅客船でも集めて、船で33万人を避難させてもらえるよう政府に要請した」 「(このことは)住民に言っていなかった。万が一のときには消防団や市広報などの手段を使って住民に避難を伝える段取りをしていた」
―15日朝に小川町や川前町の一部に自主避難を要請しているが、これは計画のうちだったのか。 「あれは現地に入っていた研究者による測定で放射線量が高いことが分かったためだ。区長を通じて自主避難を呼び掛けた」
―政府が第1原発から半径20~30キロに屋内退避を呼び掛けたのは15日午前11時。避難は全て市の責任で行ったのか。 「政府の指示が出たころには避難は終わっていた。市としては何もないのが一番と思い、覚悟してやった。自分は県議会で18年間原発の問題をやってきたし、職員の努力もあり、先手先手で動くことができた。次善の策だったかどうかは、後で検証される話だろう」
3号機が水素爆発、放射線量ピーク迎え配布決断した
―市は18日に安定ヨウ素剤を市民に配布するが、この判断の背景について聞きたい。 「14日の3号機の水素爆発の影響が大きい。午後11時30分ごろから、副市長2人と保健所長、保健福祉部長の5人で、消防本部でヨウ素剤についての会議をした。配る方向は決まったんだけど『子どもには錠剤を粉にして渡さなければならない』となり、その方法をどうしようかと話し合った」 「市の消防本部にはJCO(核燃料加工会社ジェー・シー・オー)の臨界事故を受け、風速計の塔の上に放射線量を測定する機器が置いてあったんだ。日付が変わって15日午前0時40分ごろだったと思うが、消防職員が『放射線量が異常に高くなっている』と報告してきた。午前1時30分ぐらいまでが放射線量のピークだった。それでもう『(ヨウ素剤を)配るしかない』となった」
―政府や県などからヨウ素剤についての連絡はあったのか。 「何もなかった。子どもには、すしに付いているしょうゆ入れに(錠剤を砕いて溶かして)入れる方針が決まり、準備を進めた。18日から配ったのは妊婦と40歳以下の市民。相当な数だった。服用までは指示しなかったが、市民で飲んだ人もいたんだと思うよ」 「県との連絡について聞かれるが、震災当初は(県の)担当部長にいろいろ頼んでも、何の結論も出さなかった。3月の下旬ごろだったと思うが、当時の県議会の佐藤憲保議長と瓜生信一郎副議長がいわき市に来た。2人が県の災害対策本部に入っていると聞いていたので『ふざけんな、この県。何やってんだ、この』と言った」 「そうしたら『これは直通だから』と言って、当時の内堀雅雄、松本友作の両副知事の携帯番号を渡してくれた。それからだもの。まともに連絡が取れるようになったのは。佐藤雄平知事(当時)とは話さなかったな」
―ガソリンなどの物資不足も深刻だったと聞いている。 「避難所への物資は豊富だったんだが、放射能を怖がって物流がいわきに入ってこなかったため一般家庭が困窮した。当時の農林水産相の鹿野道彦氏に『餓死者が出たら政府の責任だぞ』と話したことはある」 「ガソリンについては小名浜石油のタンクから市民への緊急提供をお願いした。あそこは三菱商事系列だから、東京の専務のところに電話した。そうしたら、ちょうど地元の幹部が同席していて話が進んだ。とにかくやるしかなかった。不足が一番早く解消されたのはいわきだったのではないか」
―いわき市は余震でも大きな被害を受けた。 「4月11日(発生の最大規模)の余震では、3月11日に被害がなかった田人地区や遠野地区がやられてしまった。田人地区では断層が走るなど大変だった」 「その前日には、水道管理者が『明日には水道が全面復旧する見通しです』と災害対策本部で報告していた。ようやく一つ復旧の目安がついたと思っていたのだが、余震で水道がまた壊れてしまった。担当者が首をうなだれていたのを覚えている」
「市長の意を忖度。避難準備区域から外した」と言われた
―4月22日の屋内退避の解除について聞きたい。政府から事前に説明はあったのか。 「あった。当時の経済産業副大臣の松下忠洋氏(12年に死去)が3回ぐらい事前説明に来たはずだ。放射線量などの数字を三つぐらい示してきたことを覚えている。その上で『屋内退避を解除しても大丈夫だと思う』と説明してきた」 「こちらには何の判断材料もないから『政府がそのような判断をするのであれば、いわき市として異議を唱えることはありません』という話をしたんだ」
―屋内退避が出された第1原発から半径20~30キロの地域の多くは、いわき市に隣接する広野町のように「緊急時避難準備区域」に指定されたのだが、いわき市の該当地区は指定にならなかった。 「その通り。どうしてなのかは分からない。政府が判断して決めた。だが、政府の対応について相当の不信感がある。当時の官房長官の枝野幸男氏が『いわき市長の要望で(緊急時避難準備区域などにしないで)解除した』というような談話を発表したからだ」 「政府の説明を了解しただけであって、私からは何の要請もしてないわけだから。それで抗議文を出したんだよ。『私は一切そういう趣旨の発言はしていません。解除する基準に合致するというので了解しただけの話』と」
―どのような反応だったか。 「枝野氏はもう一回談話を出してきた。内容は『いわき市長の意を忖度(そんたく)して解除しました』というものだった。頭にきたからもう一度抗議文を出そうとしたら、副市長が『政府が普通出さない談話を出したのだから、もうおしまいにしては』と言うのでやめた」
―いわき市が要求したことではなく、政府が避難指示区域にしなかったのか。 「そうそう」
―忖度という言葉は一連の森友学園疑惑でよく聞いた言葉だが。 「(皆さんは)そうだろう。あんな言葉は枝野氏の発言で初めて聞いた」
―結果的にいわき市にとってはどうだったのか。 「うーん。まあ、線量的にはそんなに高くなかったからな」
―震災後に「市長が逃げた」といううわさが出たが。 「当時は病院の待合室などで言われていた。(中傷の文書などを)500通ぐらい警察署に持って行った。今ならば匿名でも調べればすぐ分かるだろう」
―震災から間もなく10年になる。復興の現状をどう見ているか。 「次から次へと課題が出て、一つ一つ解決するためにやっていた。復興交付金の事業については、在任中に目安をつけることができたと考えている」
―次の世代に伝えていきたいことは何か。 「震災を経験していない世代に、当時の状況を教えていくことが必要だと思う。岩手県では『津波てんでんこ』の教えが伝わっている。災害は忘れたころにやって来るというんだから、いかに教育をしていくかが大事だ」